山川登美子関係寄贈リスト

資料NO 標題 冊数 体裁 内容

寄書き扇面(表)

寄書き扇面(裏)

扇面

明治33(1900)年8月6目、関西青年文学会堺支会の宅(たく)雁(がん)月(げつ)、河野(こうの)鉄(てつ)南(なん)が主催した歌会が、与謝野鉄幹を招いて堺浜寺公園内の料理旅館「寿命館」で開催された。その時に八本の扇が渡され、それにそれぞれが名を揮毫した。本学図書館が所蔵している扇は、その八本のうちの一つである。扇面には大きく浜寺の松が一本描いてあり、「寿命館」の判が押されている。裏面には、月啼(大槻(おおつき)月啼(げってい))、鉄南(河野鉄南)、鉄幹、梟庵(中山(なかやま)梟(きょう)庵(あん))、晶子(鳳晶子)、雁月子(宅雁月)、梅渓(高須(たかす)梅(ばい)渓(けい))、登美子、と自署がある。

小ノート
(雑詠帖)

洋ノート
鉛筆書(僅かに筆書あり)

日本女子大学校英文科予科2年(明治38)時代のノートを転用したもの表紙に英字で「英文法予科2年」とある)。各種メモ及び詠草・雑文のほか。ボケット型の小ノート。

中ノート
(雑詠帖)

鉛筆書
(一部赤鉛筆、毛筆あり)

同じく雑記帖の転用、明治39年前半期。「小ノート」に続く内容のもの。英文法、詠草、随筆風の文等の雑記など。表紙なし。

大ノート
(雑詠帖)

洋ノート
鉛筆書(僅かに毛筆、紫色の鉛筆あり)

同じく倫理学のノートの転用。金銭出納明細をはじめ詠草、雑文で京都及び若狭で療養中のもの。

洋紙ノート

洋ノート
ペン書

七五調の歌が書かれているが、作者未詳。当時の雑誌に記載されていたものを写したものか。表紙なし。

English

洋ノート
ペン書(一部鉛筆書)

日本女子大学校英文科予備科在学中のノート。表紙なし。

無題
(ノート)

洋ノート
ペン書

明治37年11月24日から明治38年2月9日までの日本女子大学校時代の寄宿舎生の健康状態の記録ノート。

詠草

和紙綴
毛筆書

和綴56枚。梅花女学校卒業後にまとめて清書したものと思われる。題詠集。「愛山女史識」とあり、愛山女史とは登美子の初期の号。

和歌組題
四百弐拾八首

和紙綴
毛竿書

和紙114枚綴。「若狭八景」など旧派の傾向の歌。表紙に「このぬし遊歌」とある。

10

雑記

和紙綴
毛筆書

月の異名や古歌、及び琴歌など雑記幌。「明治卅一年八月よりしるす」とある。

11

土佐日記
巻の上

和紙綴
毛筆書

「をとこもすなる日記といふ物を女もして見んと…」
習字の手本にしていたと思われる。表紙は自筆、裏表紙に「梅花女学校生徒山川登美」とある。

12

古歌筆写

和紙綴
毛筆書

有名な御製や、「武将参拾六歌選」と題する古歌などの筆写。
登美子の自筆。

13

日本魂

和紙綴
毛筆書

日清戦争当時の軍歌や漢詩の集。表紙に「愛国者必携」、
奥書に「明治聖世二十有八季十又一月…ひのもと女史」とある。

14-15

琴うた

琴うた

和紙綴
毛筆書

山田流の琴歌、本人の筆蹟、明治31年頃のもの。

16

雑詠記録

洋ノート
毛筆書

土田若洲が登美子の三冊のノートより、その詠草を整理し記録した。

※ノート類の名称は図書館での仮称

【寄贈の経緯】

あとがき
山川登美子に関する小文を一地方紙に執筆したのが機縁となって、それまで一面識もなかった故山川亮蔵氏(ペンネームは山川亮、または鳳逸平、『種蒔く人』の同人)から、全く思いが
けない御手紙を貰ったのは、たしか昭和25年11月のことだったと思う。それから数次にわたる書翰の往復があった後、同氏が所蔵される登美子の遺稿ならびに遺品の全部を、筆者の勤務
する福井大学の国文学研究室に寄贈して下さることになった。むろん、郷里を同じくする私たちにとっては、何よりの朗報であった。現品が送られてきたのはそれから暫らく後のことであった
が、参考までにその内訳を記すと、上記の表の如くである。
以上のほかに、亮氏の「姉山川登美子の思ひ出を語る」(秘稿)三冊、その他1冊が添えられてあった。(非電子化資料)
(このあとがきは『山川登美子集』 坂本政親編著 福井大学国語国文学会発行 昭和36年を転記した。)

【解説】

「姉の思ひ出」は、山川亮述・秘稿『姉登美子の思ひ出を語る』全三冊のうちの第三冊目に当たる。和紙を袋綴じにしたもので、表紙に「昭和二十五年四月一日起稿、同四月十日脱稿」とある。他の二冊は洋罫ノートで、第一冊は「一つの魂の悲劇」、第二冊は「姉の死を廻ぐる『家』の崩壊」と題され、その冒頭(二冊共)に「一九五〇(昭和二十五年)六月十九日書き始め、同八月六日書き終る。茨城県磯原町豊田の疎開地の寓居に於て」と見える。従って、先ず「姉の思ひ出」を執筆し、そのあと改めてさらに詳細な内容の第一、第二冊を執筆したことになる。ただし、第一、第二冊は、その「はしがき」に、「姉が死んでから既に半世紀に近い月日が経過した。今に於て私の知れる限りを書きとめて、これを後世に残してをかないと、永久に姉のことは闇の中に葬られて終ふであらう」と記しているように、その執筆の目的は、肉親から見た登美子の真実の姿を正確に記録することにあり、必ずしも出版を志していたわけではない。そればかりか、「この手記は今後しばらくはまだ公開することを許さぬ秘記である」と明記されており、さらに他の資料と共にこの手記を寄託せられた際にも、亮氏より筆者は、内容の非公開の点について要請せられているのである。秘稿とある理由は、内容的に家族をはじめ親戚知人のことにかかわる記述が多く、特にある一部の人に対して厳しい批評が加えられている面もあるので、それによっていろいろな感情問題の派生する惧れがあるのを慮ってのことであろう。それに比べて、第三冊「姉の思ひ出」の方は、右二冊を要約した形として一応のまとまりもあり、かつ亮氏自身も活字化されることを望んでおられたような事情もある。
以上の理由によって、ここでは近親者の書いた貴重な資料として、「姉の思ひ出」を掲出することにした。ただし、そのうち第三項「思ひも懸けぬ手紙」は私事にわたる記事が多いので、便宜上省略に従った。また第四項「姉の短歌を批評する基礎について」には、すでに活字化した文章の切り抜きを利用して綴り合わせた箇所があるためか、一、二不自然な文章が見受けられるが、すべて原形を重んずる立場から、そのまま(仮名づかいの誤りなども含めて)とした。なお、記述の内容については、記憶違いその他によるミスもないではない。例えば第二項その四の中に、女子大時代落合直文の萩之舎社中の短歌会に出席したようなことが記されているが、直文は三十六年十二月に没しているので、そのような事実はあり得べくもないし、同じくその五の中に、京都で一夏を姉と共に過ごしたのを明治三十九年のことらしく書いてあるが、これは四十年の思い誤りであるとみられ、また武久家と一緒に伏見桃山に移ったとあるのも、登美子には直接関係のないことである。念のため、書き添えておく。前述したように、秘稿第一、第二冊は、亮氏没後の現在でも全面的に公開し得ない状況にあるが、部分的には評伝の中に適宜引財しておいたところだし、なお支障がないもので必要と思われる箇所については、参考のため次に僅かでも摘録しておくことにする 。。。。。。。。。。。。。
(『山川登美子全集 下巻 研究・資料編』 坂本政親編著 文泉堂出版 p.376-377 「五 姉の思い出(抄)」解説より)


 Web版 山川登美子展


   『虫メガネでみる』 山川登美子 扇面寄せ書き(表)

(旧:山川登美子資料)

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