若狭國守護職次第税所今富名領主次第神宮寺舊記合本

若狭国守護職次第
わかさのくにしゅごしきしだい
建久七年(一一九六)から応永二十九年(一四二二)に至る間の若狭国の歴代守護について編年的に記した書。著者未詳。正和三年(一三一四)以後数次にわたって追補の手が加えられて現在の姿となった。一冊。『群書類従』補任部に収められていることにより、この書名が広く通用しているが、大橋本『若狭国守護職代々系図』はその原本である。大橋本の表紙には「若狭国守護職代々系図 房俊之」とあり、見返しには「雖為愚存為末代一見書写了/正和三年(甲寅)閏三月十六日巳剋書了」の房俊筆識語がある。本文の筆跡は、最初から北条貞時項の「其代帆足入道成願」までが一筆で、それに続く貞時項の正和四年の記事は房俊の追筆。以下別人による追補が行われているが、次の北条高時項から「又持明院殿足利殿」項まで、すなわち建武三年(一三三六)までが一筆。ついで「佐々木佐渡判官入道々誉」項から「一色修理大夫入道信伝」項まで、すなわち応安三年(一三七〇)の記事までが、また別筆で補われている。さらに「信伝御逝去之後」から一色満範項「同(応永十九年)十月廿六日当将軍家義持」云々まで、それに続いて同筆で「同(応永)十六年(己丑)十一月開発守護代宿所」云々から末尾までが補われている。このように大橋本によって本書は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、数次にわたる追補によってその本文が成立したことが明らかとなった。したがって本書の記事は各事件から大きく降っていない時期に書かれたものであり、その史料的信憑性がかなり高いことをうかがわせる。本書の記事では建久七年に津々見(若狭)忠季が「守護本下司稲庭権守時定跡」を拝領して守護職に補任され、やがて島津忠時から、「修理亮」(北条時氏)―「中武蔵守」(同経時)―重時―八郎御曹司―時輔―時宗―貞時―宗方―宣時―貞時―高時(以上北条一族)―公家一円―足利殿―公家一円―足利殿―佐々木道誉―桃井忠常―大高重成―足利高経―大高高成―細川清氏―尾張右衛門佐入道(石橋)―尾張修理大夫入道々朝―一色信伝―一色詮範―一色満範と歴代守護の名を掲げている。また守護代・又代官の名も記され、若狭国守護職研究上の根本史料である。
[参考文献]
『群書解題』二上、田中稔「鎌倉幕府御家人制度の一考察」(『鎌倉幕府御家人制度の研究』所収)
(田中 稔)
(JapanKnowledge Lib 国史大辞典(Yosikawa kobunkan Inc)による。)

こいのまつばら[こひのまつばら] 【恋松原】
解説・用例

謡曲。四番目物。廃曲。作者不詳。若狭国気山(けやま)の深い雪の中で旅僧が、昔松原で男を待ちながら雪に埋もれて死んだという女の霊とその思いを寄せた男の霊に会い、その跡を弔って二人を成仏させる。
(JapanKnowledge Lib 日本国語大辞典(Shogakukan Inc.)による。)