鈐林必携

下曾根金三郎
しもそねきんざぶろう
1806-74
幕末の西洋砲術家、幕臣。名信敦、桂園と号し、武裸雄とも称した。『寛政重修諸家譜』149には下曾禰とあり、それが本姓。文化3年(1806)生まれる。父は長崎奉行・江戸町奉行として令名高く、また露国使節プチャーチンに応接した筒井伊賀守政憲で、その第二子。文政12年(1829)下曾根小十郎信親のあとを継ぎ、采地は九百石、天保2年(1831)西丸小性組に取り立てられた。渡辺崋山の門人となったが、同10年の蛮社の獄では危うく連累を免れた。同12年、長崎から上府中の高島秋帆について、西洋砲術を学び、韮山代官江川太郎左衛門についで高島流砲術指南を許された。嘉永5年(1852)二ノ丸留守居となったが、安政2年(1855)先手鉄炮頭に転じ、翌三年講武所が開設されると砲術師範を兼ねた。文久元年(1861)西丸留守居格となり諸大夫に列して甲斐守を称した。同三年歩兵奉行に転じ砲術師範を兼帯、ついで慶応3年(1867)陸軍所の修行人教授方頭取となり、幕府の軍事改革に参画した。著書に『経済弁』『下曾根上書』『高嶋流砲皆伝書』および『鈐林必携』(上田亮章著、下曾根閲)がある。下曾根の預調練所(二千八百坪)は芝赤羽にあったが、のちにこれは外国人旅宿の場所となった(赤羽応接所)。金三郎の性向については、当時「韮山様(江川太郎左衛門)とは大違、実用嫌の花麗好き」という評もあった。菓子をつくることを好み、甘納豆はその創製という。明治7年(1874)6月5日没。69歳。墓は東京都渋谷区広尾の東北寺にある。
[参考文献]
佐藤昌介『洋学史研究序説』、安藤直方『講武所』(『東京市史外篇』三)、森銑三「筒井政憲遺聞」(『森銑三著作集』九所収)、笹原一晃「嘉永年間の西洋砲術―下曾根金三郎の周辺―」(『蘭学資料研究会研究報告』一七六)
(洞 富雄)
(JapanKnowledge Lib 国史辞典(©Yoshikawa kobunkan Inc.)による。)